関田育子「浜梨」@三鷹SCOOL190607
アフタートークで関田さんはドゥルーズの気体状の知覚に関心があると仰っていた。
劇として典型的な複雑でドロドロの人間関係(愛憎)もよくわからないと仰っていた。
液体状のドロドロした関係、知覚から距離を取った結果、演者同士が全く接触しない新鮮な演出に至ったのかなと思った。
手を繋ぐ場面で実際には手を繋がないし、抱き合う場面でも実際には抱き合わない。
気体状の分子が相互に存在を認めていても、その関係が膠着していないように。
宙吊りにされてそれぞれが自由でありながらも相互の関係は無みにされていない状態。
気体状の知覚は演者同士の動きが気体状の関係(身体は触れ合わず、でも動作は関係していること)に還元されることで実現しているのでしょうか。面白いことを考えるなあ。
個人的な想像と興味について。
例えば、液状の中に気体が生じる(炭酸水のような)、泡立つ知覚。ってどうなるのか。
固体化したもの(保守的、権威的な)と液状化したもの(不定立ゆえに過剰に動的で揺らいでいるもの(情念))の対立は、例えば、ロミオとジュリエットのような典型的な劇に表れている。保守的な権威に狼狽する情念。空騒ぎ。
固体化したものと液状化したものの対立(固形物の融解)を踏まえると、液状化したものと気体化したものの対立(泡立ち)は「空騒ぎ」自体を俯瞰している。
固形物としての茶葉を粉砕し、水に溶かし、抹茶をたてるように、茶化す。泡立てる仕草。
茶化しながらも振る舞いは特異に純粋化され形式的で戯画的ですらある事。
そう考えてみると、
「浜梨」という上演はそもそも泡立っていた、という気がする。
しかしそれは、炭酸水のような液体そのものから自生する泡立ちでは無く、抹茶をたてるように能動的に泡立てられたものである。
この能動性は、演劇が持つ「あえてやる」性質、演劇の演劇性に由来するものだろうと思う。
だとしたら、炭酸水のような自生する泡立ちというのは演劇上では観察不可能だろうか?
とても新鮮で発見のある観劇でした。関田さんは追いかけなくては。